議会に戻れなければ政策も実現できない

 渡辺将人著”アメリカ政治の壁”を読んでいて、下記のくだりで、小池知事と都自民党、そして民進党の事を考えた。

 「デイビット・メイヒューは”アメリカ連邦議会”で指摘した。政治家は再選をめざして、自らの功績を主張し、立場を表明し、そして自らを宣伝する。政治家の最大の目標が再選だとすれば、候補者を誰が公認するか、選挙資源を誰が用意してくれるかが、議員の行動を規定するのは自然な成り行きだ。議会に戻れなければ政策も実現できない。再選を最優先に考えれば、選挙区に背いてまで党に忠誠を示し続ける意義は薄い。そこでは『利益』と『理念』が複雑に混ざり合ってる」

 今度の都議選に向けて、公明党自民党と一線を引いたり、自民党から新風自民党が別れたり、日本的に言うと少し節操がないと言うのかもしれないが、政治の世界ではごく当たり前の事と言えよう。

 都議会の中継を少し見ていたが、小池知事の話の内容はよく分かり、常識的な答弁だなあと、共感できるところが多かった。

 オリンピックの会場の問題では、新聞、ニュースの物言いを聞いていると、「大きく打ち上げたのに成果は大したことが無かった。」というような感じだが、費用があれだけでも削減できたというのは一都民としては、従来通りやっていては減ることもなかったものが良くやった、と言いたい。

 アメリカでは議員立法主体なので再選されれば政策の実現に近づけるが、日本では政権を取らないと政策の実現が難しい。そうすると再選戦略だけでは不足だ。

 そこで民進党なのだが、民進党は、議員の再選戦略から一レベルあげて、党の再政権党戦略という観点で考えないといけないのではないか。

 一度取った政権の時、やる気にはやり想定外の災害も重なり失敗してしまったが、次はどうする。どういう政策を実現したい。理念ではなく、意にそぐわないレベルでも成果として国民に説明できる政策への関与。〇〇反対ではなく、〇〇のこのポイントを修正してくれれば他は飲みましょう。えっ、公明党がやっているではないかと?そう、それで良いのです。少しでも自分の党の支持者に利益があるような政策に変更してもらう。そしてそれの功績を主張し、立場を表明し、そして自らを宣伝する。

 現実的な政策に少しでも関与し続けて行かないと政権は取れない。〇〇反対が始めにあっては、政権を任せられない。

 弁解ではありませんが、政治的に言うと、私自身は無党派と思っています。それは「政治的に無関心で雰囲気で投票する層の事ではない。現行の政党はすべての面でぴったりくる考えを持っていないので、候補者や選挙サイクルごとに態度を決める層である。」という説明が良く当てはまるなと言う立場です。

 今は自民党の政策に賛成する所が多いですが、それにしても民進党は、といった所です。

新聞記事の結び方

記事のこんな結びの書き方には要注意:客観的ではない!

 1) 今後各方面の批判を呼びそうだ。
 2) この件論議を巻き起こすに違いない。
 3) といった狙いがある、との見方がある。
 4) 今後を占う意味で注目される事態だ。
 5) といった点は当事者にとって最大の難問になる。
 6) この結果は今後の行方にも影響しそうだ。
 7) より一層の責任が問われる。
 8) といった声が多く、このままだと一波乱ありそうだ。
 9) など事態の悪化は避けられそうにない。
10) 予想以上に厳しい状況に追い込まれている。

 

出典:

差出人: 渡部亮次郎 [メルマ!:00108241]
日時: 2016年12月28日 7:54:59 JST
━━━━━
新聞の責任
━━━━━
 渡邊 好造

大学在学中の約60年ほど前のことだが、M新聞記者を永年経験された方の 週1回1時間半の4回集中講義「新聞学」を受講したことがある。

その講義の評価は、論文提出であった。

テーマは「新聞の責任」で、中味は自由。後で分ったことだが自分の意見 が述べられていれば、たった一行だけでも優良可の最高合格点”優”が与え られた。

この時筆者が提出したのは、「記事は客観的に記述するのが新聞の責任」 であった。

記事の書き方に、記者個人の考えへ誘導しようとするかのような書き方は 気に入らない、といった内容である。

例えば記事のこんな結びの書き方―。

 1) 今後各方面の批判を呼びそうだ。
 2) この件論議を巻き起こすに違いない。
 3) といった狙いがある、との見方がある。
 4) 今後を占う意味で注目される事態だ。
 5) といった点は当事者にとって最大の難問になる。
 6) この結果は今後の行方にも影響しそうだ。
 7) より一層の責任が問われる。
 8) といった声が多く、このままだと一波乱ありそうだ。
 9) など事態の悪化は避けられそうにない。
10) 予想以上に厳しい状況に追い込まれている。

といった表現の仕方だ。

客観性がなく、なんの根拠も示さずにまるで、世論がその方向に向かって いるかのような記事の結び方はケシカラン、という他はない。

改めて50年前のことを思い出しながら最近の新聞を読んでみると、今も こうした表現の仕方は変っていないことに気づかされる。

1)~10)のような見解には根拠が必要なのに、どう読んでも記者個人の 意見なのではないかと思わせる場合がある。

社会面や経済面でも散見するが、納得のいかないケースは政治面に多い。

こうした気になる記事の書き方は未だに残っていて、上から目線で読者を 馬鹿にしているように感じる。

新聞は週刊誌の視点と同じであってはならない。

当り前のことだが、記事内容は客観的な論拠を示すことが肝要で、もし記 者個人の意見を述べ、世論を誘導したいなら氏名を明記したそれなりの コーナーを設けるか、”社説”として掲載すべきではないか。(完)

120歳ぐらいが限界寿命

naverまとめに最近分かったような話が載っていたんだが 

   http://jp.wsj.com/public/page/0_0_WJPP_7000-458352.html

   https://matome.naver.jp/odai/2133967745629778801

私が読んだ本には(岩波新書 祖父江逸郎著 長寿を科学する 2009年9月18日発行)

生存率曲線の変遷の話が載っていて、グラフを見せながら年齢別の生存率の変遷を紹介しており、『寿命の伸びとともに、生理的老化が比較的長く自然な形で保たれ、病的老化の比較的少ない、つまり病気にかかることが少ないライフスタイルが次第に浸透しつつ・・・人生最後の死を高齢で、「垂直死」という形でむかえる傾向に近づきつつある。』

寿命の指標(限界)ということでは、

『生物の寿命は成長期間の6倍ぐらいと言われている。人の成長期間を20年前後とすると120歳ぐらいが限界寿命という事になる』と。

私にとって120歳は新しい話ではなかったので、ここにメモしておきました。

 ただ私が120歳になるころには、遺伝子技術でブレイクスルーされ、無限の寿命になっているかもしれませんね。楽しみ楽しみ(笑)

 

自分のことは棚にあげて

 この日記を書き始めて、何となく「色々書くけれど、我が身を振り返ると、自分はそこまで言い切ってもいいのだろうか」と、そんな気持ちを感じていた。色々な資料を基にして言うわけでもないし。

 

 五木寛之の「新老人の思想」を読んでいたら、

『「自分のことは棚に上げて」というのが、私の日頃のモットーである。

・・・。しかし、自分でこれだ、と思ったことは人に伝えたい。・・・

 出かかった言葉を飲み込んで、黙っているか。それとも「自分のことは棚に上げて」、目をつぶって口にするか。・・・

 「自分のことは棚に上げて」と、覚悟を決めるのだ。それしかないではないか。』

とあった。

 

この言葉をいただいて、我が日記の居直りの言葉にしようと。

どうして最近よく日記を書くのか

 実はまだ三日坊主の期間内なのです。

 先日、外山滋比古さんの知的生活習慣という新書を読んだからなのです。冒頭の章が「日記をつける」(笑)

『日記には、心覚えのためでなく、むしろ、忘れて頭を整理する効用がある。書き留めてしまうと、心のどこかで「もう安心、記録してある」とささやく声がして、本人は知らないが、ゴミ出しが進む。』

 ゴミ出しと言えば、娘から言われている。「将来引退したら(私ではなく娘が)実家に住むかもしれないので、売らずに残しておいて。だけど中身はいらないから、皆捨てておいてね」

 今孫守りの手伝いで娘達の家の長期滞在することが多く、最近ではホームレスの知恵をつけてしまった。旅行するときの必需品と同じように、娘宅で気楽に生活するには、「爪切りどこにあるの」と聞かずに済むように、こまごまとした身の回り品を携えていくのが一番。100円ショップで売っている小分け袋にいれ、それをポンポンとキャリーに放り込んで、電話一本の「出張育爺」に出発。

 脱線したが、そうやって生活してみると、本当に必要な物って本当は少ないんだ、という事に気が付く。

 引っ越し貧乏って言うけど、引っ越しをしすぎて費用がかさんで貧乏になるというけど、実はそうではなく、「無駄なものを携えていかなくなって、本当に必要なものしか残らない」というスリム化の作用があることではないかな、と最近思っている。

 町ですれ違うホームレスの皆さんと同じように、キャリー一つで生活できます、と気が付いた。

 今のところ、しがらみまでは捨てきってないので、家族のありがたみの中で生活してますが、日記をつけて、頭の中のスリム化が進むと、ホント、すがすがしい気持ちになっていく。良い往生ができるのではないかと感じています。

 この新書を神棚に飾って。日記が続きますように。パンパン、礼。

上から目線とポピュリズム

小学館発行の「本の窓」というPR誌(無料/月100円で郵送)に連載されている僧侶小池龍之介さんの思い込み突破法16回を見て。

-----------

 今月の思い込み:「『上から目線』の物言いはけしからんもんで、反発して当然だ」

 

 「上から目線」と感じるかは、それを感じる本人の、傲慢さの度合いに応じて変動するようだ。本人が「ひとかどの、経緯をもって接せられるに値する人物でなのであるッ」と思い込んでいるためにこそ、他人のちょっとした傲慢さに対して、過敏になる。

 「その物言いは、立派な私に対して失礼だ」「この態度は、尊重されるべき私に対して、生意気だ」というのは、これこそが「上から目線」と一刀両断するときの裏のメッセージであり、隠れた本音なのです。

 みんな、自分が王様にでもなったような錯覚をしていて、相手が自分のためにすべてを分かりやすく、説明してくれるべきだと、尊大極まりない思い込みをしている時代である。

 このような慢心の評価基準で他人を裁くことの弊害は一目瞭然であり、”うまく演じてへりくだり、大衆の機嫌を損ねないで済むような人ばかりが、良好な評価を受けかねません。”

------------

 最近のTVを見てると軽くこのフレーズが使われているような気がします。今まで私も何となく笑いを誘うトークだなと聞き逃してきましたが、

 「この大衆の機嫌を損なわない」にチョット引っかかってしまいました。

つまり「この大衆の機嫌を損なわない」をうまくハンドリングし、「大衆の一面的な欲望に迎合し,大衆を操作することによって権力を維持する、これが大衆迎合主義」と言われるものです。

 今、民族主義ナショナリズムの動きが世界で大きくうねっていますが、その動きと重なると、大きく社会が振れるのではないかと心配です。

 誰かがうまくやる前に、我々の方が、甘い言葉を求めているという状態になってる!それでは困る!

 この状況をうまく利用する扇動がうまい政治家が出てくると、ちょっと大変な事態になりかねないな、と感じました。

 小池さんは、上記方向の話ではなく、

 「上から目線!」と感じた時、ひょっとすると己の傲慢さゆえに、相手のメッセージを受け止め損ねているのではないかしらと、自己点検するチャンスだとすら言えると言われる。

 「自分は一体、相手の何を、そんなにも受け止めたくないと躍起になっているのだろう」

 相手が人の話をあまり聞かずに自負していることを話し続けても、その内容として聞くべきところを見つけるように努め、それに対して頷いていった方が、良いのではないのでしょうか。

 

 話の落ちがどこだか分からなくなりましたが、「上からめせーん」と言った時、その裏に自己の慢心があることに気付き、視線を180度回転んし、心を柔らかく開き、理解することで、安寧な毎日、安寧な世の中にしていきたいものです。

 

郵便物の転送とアマゾンでの1冊の本

 最近アマゾンで色々買うことが多く、プレミア会員になっている。本1冊でも送料無料で送ってくれるので重宝している。

 ところが今回買った1冊の本が届かないという事件が起きた。

 本が1冊なので、ゆうメール便で来たらしかった。翌日配達されるので今週はまだ娘宅にいるので、娘方私という宛名で送ってもらった。

 ところが宛て先不明でアマゾンに戻ってしまった。

 色々調べたらことの顛末は次の通りであった。

・郵便局には「配達原簿」というものがあり、それに私の名前が載ってなかった。

・どうして載ってなかったかというと、昨年は孫守りで長女宅に逗留する日が多く、自宅に郵便物を取りに戻るのが面倒だったので、郵便の転居届を出して転送してもらっていた。

・ところがこの転送は、区役所・クレジット会社等からの「転送不要」という郵便物は転送しないというルールになっている。区役所から無料健康診断のお知らせが来ないのでなんとなく不審に思っていた。マイナンバーのお知らせも来ないと困ることになると、転送を止めた。

・転送を止めるという手続きは、転居届という手順しかない。このため私はここには「いない」ということになって、ゆうメールの本は家まで来ずに、郵便局で「宛先にその人はいませんよ」という事になってしまった。

・この状況から脱出するには、転入届を出すと良いらしい。転入届と言っても、転居届の旧住所を書かずに新住所しか書かない届けを出す。旧住所を書くと自宅に来るものが転送されてしまう!

・そうすると、自宅にも、娘宅にも私という人間がいるという状況に持ち込める。

・住民票と違って1ヶ所にしか出せないという事はないらしい。

・この方法を取る前に(ネットで調べる前に)昨夜クレームの電話を掛けたので、郵便局から「居住確認のお伺い」という定型の連絡はがきを送って来てくれた。明日出しに行けば一件落着。

・本はというと、すでにアマゾンに戻っており、クレジットはキャンセルという事になっていた。

・もう一度、同じ本を頼み、無事届けば一件落着。

・郵便局の窓口の方にクレーマーもどきの苦情を言ってしまったのが、勇み足だった。