韓国との関係

日本と韓国、中国との関係について、歴史は繰り返す、という感を強く抱きました。

今の状況の理解の参考になれば。

 

少し長いが引用させて頂きます。

岩波新書 日本古代史⑤平安京遷都 p80 川尻秋生

「・・・これらの芸能・職能は、日本独自に発達したと考えられがちだが、そもそものはじまりにおいては中国文化の影響を強く受けていた。承和の遣唐使は、直接、政治制度の変革をもたらしたわけではないので軽視されがちだが、日本文化の成立を考える上では見過ごすことはできない。
 一方、朝鮮半島に眼を移すと、当時の新羅と日本の関係には複雑なものがあった。そもそも、新羅は唐と連合し、660年には百済、668年には高句麗を滅ぼし、ついには唐の勢力をも朝鮮半島から追い出し、朝鮮半島を統一した。その間、天智2(663)年には倭国が派逍した百済救援軍が白村江で大敗するといぅ事件も起きた。その後、935年に減亡するまでの時期を統一新羅時代と呼んでいる。日本(倭国)と新羅の関係は古墳時代まで遡るが、白村江の戦い以降、より複雑な関係がはじまった。
 日本と新羅の関係を大まかにいえば、唐と新羅の関係が良好なとき、そして新羅国内が平穏なときは関係が悪く、唐と新羅の関係が険悪なとき、新羅国内が乱れているときは、両国の関係は良好であるということになる。したがって、白村江の戦いの後、新羅朝鮮半島から唐の勢力を追い出すと、唐と新羅の関係は悪化し、日本と新羅の関係は改善した。しかし、八世紀 はじめに即位した玄宗皇帝の頃から、唐が膨張政策を止めるようになると、日本と新羅の関係 は悪化するようになった。天平勝宝5(753)年には、長安の大明宮で、日本の遣唐大使と新羅使者が席次争いを起こし、ついに藤原仲麻呂新羅遠征計画を立てたほどである。
 しかし、八世紀末に新羅国内で混乱が生じると、一転して日本との関係は好転 した。宝亀10(779)年には、「御調」を携えて使者を派遣してきた。「調」とは服属の印として献上される象徴的物品のことである。
 それではなぜ日本は新羅を属国と考えたのであろうか。それは、日本の小中華思想と関係す る。歴代の中国王朝は、自己をもっとも優れた民族•国家であると考え、周辺の国々は野蛮で劣っていると認識した。これを中華(華夷)思想といい、そのことを証するために、周辺諸国朝貢を義務づけ、代わりに官爵を与えた(册封体制)。倭の五王時代の倭国が中国に朝貢していたことはよく知られている。しかし、それ以降、島国であるという特殊性も手伝って、日本(倭国)は冊封体制に入らなかった。これは東アジアでも異例である。
 こうした歴史的背景から、倭国は中国の中華思想をまねて独自の中華思想を持つようになっ た。これが小中華思想である。その結果、新羅百済高句麗などの朝鮮半島諸国やエミシ.隼人•南島の人々を「諸蕃」と位置づけ、「朝貢」を要求したのであった。
 さて、問題が起きたのは、承和3(836)年、遣唐使を派遣する際のことであった。日本政府は、派遣に先だって、遭難した場合の保護を求める使者新羅に送った。ところが、その使者に対する返答が議政官を激怒させた。新羅がみずからを「大国」と称し、遣新羅大使三津のことを「小人」と呼んだ。これは新羅が日本を対等と認識するようになっていたことを示している。
 これに対して、日本政府は、承和9年に外交方針を大きく転換した。それまで、「帰化」の意思がはつきりしている外国人にはそれを許してきた立場を改め、以後は益本的に「帰化」を認めず、漂流民に対しても食料や衣服を与えて、追い返すことを命じたのである。この命令は『貞観格』に収められ、以後も長く先例として生き続け、日本の外交方針となつた。と同時に日本が東アジアのなかで、他の国々と国交を結ばなくなる端緒ともなつたのである。」